鬼ノ身城跡
きのみじょうあと
標高284mの鬼身山頂部に築かれた山城で、眼下に玉島と備中北部を結ぶ玉島往来が望める交通の要衝に立地します。
築城時期は不明ですが、南北朝時代末期の明徳年間には今川上総介泰範の居城であったとされ、後に上田氏が城主となっています。
天正2(1574)年に、松山城主三村元親氏が毛利氏に反旗を翻したことから毛利軍の攻撃にあい、三村方の城は次々に落城しました。三村氏の配下にあった上田実親の鬼ノ身城も、天正3(1575)年1月16日に包囲され、23日より昼夜四日にわたる攻撃を受けました。ついには持ちこたえられず開城を決意し、自らの命を引き換えに城内の兵士を救いました。その後、この城は江戸時代の初めには廃城となったようです。
鬼ノ身城の城郭は、県下ではまれな「扇の縄」という形式をとるもので、扇をひろげた形に配置され、四段に構築されています。
名称 | 鬼ノ身城跡 | |
所在地 | 総社市山田 |
指定区分 | 市指定 史跡 |
時代 | 南北朝時代末~安土桃山時代 |
指定年月日 | 昭和55(1980)年1月14日 |
管理者 | 個人 |