背景切り替え

温羅伝説鬼ノ城 巨石巡り


 

<鬼ノ城1>
 当時、吉備の岡山・倉敷・総社の一帯は、海が吉備平野の半ばまで入り組んで、吉備の穴海と呼ばれていました。その船から身を乗り出して見下ろす男は、身の丈1丈4尺(約4メートル24センチ)と形容され、とてつもない巨大漢に見えた、と言います。両眼は爛々として虎狼のごとく、茫々たる鬢髪は赤きこと燃えるがごとく、とありますから、中央アジアの韃靼人の血が入った韓人と想定されます。
 
 男は自分のことを「百済の王子である」と名乗り、大きな戦に敗れ、逃れてきたのだと言います。その話を聞いた民衆は王子をはじめ百済の技術者集団らを温かく受け入れました。王子はそのお礼にと、造船技術、たたら製鉄技術など百済の優れた技を吉備の地に伝授し、豊かな先進地域にすることを約束しました。


 

<鬼ノ城2>
 百済との戦いに勝利した朝鮮半島の古代国家が、自分たちの後を追って、いつ日本(吉備)へやってくるかわからない、と考えた王子がまず始めたことは、本土防衛のための山城造りです。吉備津神社縁起によれば、朝鮮式の古代山城にならい、標高400mもある山の山頂に居城を築き、そばの岩屋山には楯を構えたといいます。百済からの渡来人は、この城壁のことを「ウル」と呼んでいたことから、王子はいつの間にか「温羅(うら)」と呼ばれるようになりました。

 そのころ吉備は、瀬戸内海とつながった中海の港があり、都へ行き来する船が数多く寄港していました。海に近いところから、造船技術、製塩技術の発達に加えて、温羅が百済からもたらした「たたら」と呼ばれる製鉄技術によって、ますます繁栄していきます。

 吉備高原や中国山地で採取された砂鉄は、城の真下にある谷間(千引かなくろ谷遺跡)まで運ばれ、精錬炉4基、炭釜3基を使い、盛んに製鉄が行われるようになりました。鉄製の農具は吉備の沖積平野の開発を飛躍的に促進し、鉄製の武具は軍事力を格段に増強しました。こうして吉備の国の政治勢力は当時近畿地方で支配力を確定しつつあった大和朝廷と肩を並べるようになりました。

→次のページへ