吉備路のシンボル備中国分寺五重塔
今日の子どもたちをめぐる問題は、いじめや不登校のみならず、数多く指摘されている。 そして、こうした問題が論議されるたびに、「スクールカウンセラー等の専門家の配置を」 「支援員制度の拡充を」といった意見が声高に叫ばれる。しかし,私は,これにいつも違 和感を抱いてきた。といっても、特別なことを考えているわけではない。「教員がいじめや不登校対応の専門家であるべきではないのか?」「発達障害の友人を支援すべきなのは、まずはクラスメートであり、教員ではないのか?」「いじめを止めるのは専門家ではなく クラスメートではないのか?」という、当たり前のことである。
総社市の「だれもが行きたくなる学校づくり」は、この当たり前のことに取り組もうという事業である。では、その特徴はどこにあるのか。
第一に、不登校対策事業としてスタートはしたが、不登校という行動に焦点化していない。それは児童・生徒が人間として成長し、不登校という問題を寄せ付けない強さとしなやかさを身に付けることに焦点を置いている取組であることを意味している。
第二に、不登校対策の事業であるにもかかわらず、不登校や不登校傾向にある一部の児童・生徒のみを対象としていない。不登校は「心の病」などではない。「学級・学校に行かない」だけである。人はだれもが弱さを持っている。ならば、その弱さも含めた相互理解と、それを基盤とした許し合い、認め合い、励まし合い、そして切磋琢磨が共存する自治的な学級をつくることで問題は乗り越えられるという考えに基づいている。
第三に、世界に出しても恥ずかしくない実践である。世界の生徒指導は、多領域にわたる「包括性」、ニーズの多様性に目を向けた「多層性」、多様な学校資源の活用を考慮した「全学校性」が求められるようになってきている。「だれ行き」はまさにそのような実践であり、それを行政ぐるみで行っている地域は、私の知る限り、日本では、ない。海外からの視察団の来日は、こうしたことが背景にある。
第四に、「連携が生んだ実践」である点である。学校・教育行政・大学の連携はもちろん、教師とスクールカウンセラー等との連携、保こ幼小中高の連携、地域と学校の連携、市内の各種団体との連携が、名目ではなく、実質的に動いているという事実がある。ビジョンを共有し、町ぐるみで教育を創造しているという点である。
「だれ行き」は今年で六年目を迎えている。その間の子どもたちの変容が先生方のエネルギーになっていることを実感している。そして、先生方の自信と、新たな実践に挑戦しようという意欲にあふれた姿勢が、私の、また大学側スタッフのエネルギーになっている。
さらにこの実践を発展させ、日本の子どもたちを救う一つの教育モデルをともに構築していくことができれば、この上ない喜びである。
平成27年10月3日
広島大学大学院教育学研究科附属教育実践総合センター
教授 栗 原 慎 二
だれもが行きたくなる学校づくり入門(本文)