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観光地看板
- 菊水の井戸
- 国指定史跡 作山古墳
- 作山古墳
- 中門跡
- 井戸跡
- 築地土塀
- 南門跡
- 岩屋
- 鬼の差し上げ岩
- 鬼城山(鬼ノ城)
- 旧総社警察署(現総社市まちかど郷土館)
- 吉備路れんげまつり創始物語
- 湊川決戦一週間前備中福山合戦
- 井山宝福寺の縁起
菊水の井戸

左にある歌碑の歌は正応元年(1288)伏見天皇の即位に当たって行われた大賞会のときに詠まれたものです。ここに詠まれた「菊の下水」は、この井戸「菊水」であると伝えられています。
また、「菊の下水」と題した足守六台藩主木下きん定が撰した謡曲もあり、上林の「松井」「臼井」とともに総社「備中」の三名水といわれています。
国指定史跡 作山古墳

つくり山と称されるほど、雄壮で巨大な前方後円墳です。独立した小丘陵を削り、整形、加工したもので、一部に後世の改変をうけているものの、全長約二八二メートル、後円部径一七四メートル、同高さ二四メートル、前方部長さ一一〇メートル、同幅一七四メートルの規模をもっています。
三段に築成され、各段には密接して円筒埴輪がたち並び、斜面は角礫でおおっています。造出しは北側には存在しますが、対照的に南側にもあったかどうかは疑問です。
作山古墳の規模は、全国的にみても第十位に相当し、県内では全長三五〇メートルで全国第四位の岡山市新庄下・造山古墳につぐもので、古墳の規模が豪族権力の反映または象徴であることからすれば、本墳の被葬者が吉備に君臨した大首長であることが想像されます。
この古墳の築造は、発掘調査がおこなわれていないのであきらかではありませんが、墳丘の形態や円筒埴輪の研究から、五世紀中葉頃と考えられています。
作山古墳

独立丘陵を加工して造られた作山古墳は、造山古墳(岡山市所在、全国第4位・岡山県下最大の前方後円墳)に次いで、5世紀中頃に築かれた全国第10位、岡山県下第2位の規模を誇る前方後円形のお墓です。
斜面と平坦面からなる三段に築かれた墳丘は、現在では草と木で覆われていますが、築造当時は平坦面に5千本に近い埴輪が立てて並べられ、斜面には石(葺石)が敷き詰められていたと考えられます。なお、古墳を取り巻く堀は認められません。
自然の景観の中にそびえ立つ作山古墳の南方には古代山陽道に先行する道が存在したと考えられており、その道を行き交う人々に、吉備の大首長の権力を誇示したものと思われています。
しかしながら、正円形の後円部をもち前方部の形態も整った畿内の大王墓や造山古墳に比べ、作山古墳は後円部が楕円形で前方部の前端も一直線ではなく中央付近が台形に突出するなど不整な形態を持っています。これは、長さと幅が不十分な自然丘陵をできるだけ手をかけず、長大にみせようとしたことによるものと思われます。
また、本来なら取り除くべき前方部全面の丘陵がそのまま残されていることなどからも、作山古墳に葬られた吉備の首長は、畿内の大王ほど、古墳築造にかける余力がなかったのではないでしょうか。
なお、作山古墳には、盗掘された大きな穴は存在しないことから、古墳の主は今も後円部の中央地下深くに眠っているものと思われます。
中門跡

現存する礎石は一個だけですが、礎石を抜き取った穴と礎石の下に詰めていた根石が残っており、南門と同じく間口五間奥行二間の門であったことがわかります。
しかし、礎石の間隔が南門とくらべてもやや広く、建物もやや大きかったと思われます。
井戸跡

井戸枠は巨木をくり抜いて作られており、平面形は、約一三〇センチメートル×六〇センチメートルの楕円形をなしていました。井戸枠の外側には板を打ちこんで長方形につくった外枠が設けられており、また流し溝の痕跡も残っていました。井戸の上には四本の柱に支えられた覆屋が設けられていました。これは、柱を並べていた痕跡や柱の残からわかったものです。
築地土塀

創建当時の備中国分寺では、寺域の周辺に幅一.二~一.三メートルの築地土塀が築かれていました。築地土塀のめぐる範囲は東西約一六〇メートル、南北約一八〇メートルで南辺中に南門が建てられていました。
南門跡

備中国分寺の正門にあたるこの門跡には、三個の礎石が現存しています。そのほかの礎石は抜き取られていますが、礎石の下部に詰められていた根石が残っており、門の規模は間口五間、奥行二間であったことがわかります。門の両脇には寺域の南限を画する築地土塀が東西方向へまっすぐ取りついていました。
岩屋

鬼の城、新山とともに平安時代には、山上仏教の中心地として栄えたといわれていますが、いろんな学説等がありはっきりしません。周囲のたたずまいや巨大な花崗岩でできた岩穴を目の前にして、吉備津彦命の温羅(うら)退治をはじめとする数々の伝説を思いうかべるとき、岩屋は、いまもなお緑と伝説の地といえます。
鬼の差し上げ岩

この岩窟の天井にあたる岩で、大きさはおよそ縦15m、横5m、厚さ5m。この地方には、桃太郎噺の源とも言われる「吉備津彦の鬼退治」すなわち「温羅伝承」が広く伝わっており、各地にこの伝承にまつわる地名や場所などが数多くあります。この岩もこの伝承にまつわるものの一つで、鬼のモデルと言われる温羅が、この巨大な岩を差し上げて岩窟を造り、すみかにしたと伝えられるところから、この名がついたと言われています。岩の裏側の窪みは、差し上げた時に出来たと伝えられ、「鬼の手形」と呼ばれています。
また、この地の岩屋と言う地名もこの岩窟に由来すると言われています。この周辺には、鯉岩・八畳岩・屏風岩など多くの巨岩があります。
鬼城山(鬼ノ城)

鬼ノ城は標高約四〇〇mの鬼城山に築かれた壮大で堅固な古代山城です。吉備高原の南端に位置しており、眼科の総社平野には集落が営まれ官衙(役所)、寺院などが造営されました。
また、古代の山陽道が東西に走り吉備の津(港)から瀬戸内海への海上交通も至便であり、まさに政治、経済、交通上の要地を一望できます。
鬼ノ城の山容は擂鉢を伏せたような形状をし、山頂付近はなだらかな斜面となっていますが、山の八~九合目より以下は著しく傾斜しています。この山頂部との傾斜が変化する部位に城壁が築かれ、全周約二.八kmに及んでいます。
特に復元整備を実施している角楼から第0水門までの城壁は、巨大な西門や、ゆるぎなく突き固められた土塁が復元され、当時の雄大な姿や精緻な築城技術を窺うことができます。
城内はおよそ三〇haという広大な面積があり、これまでに礎石建物跡、溜井(水汲場)、土取場などが見つかっていますが、今後の調査によりさらに新たな発見が期待されます。
築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した白村江の海戦(六六三年)において大敗した後、唐、新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられています。鬼ノ城は当時の東アジア情勢を鋭敏に反映した遺跡と言えます。
旧総社警察署(現総社市まちかど郷土館)

徳川幕府の倒壊により成立した明治新政府は、文明開化を推進し積極的に西洋文化の導入に努めました。
建築の面においては、旧来の和風様式に西洋建築を加味したものが、明治年間おいて官公署や学校を中心に盛んに建築されました。これが明治洋風建築といわれるものです。
この建物の建築年代は、総社警察署資料によると、明治42(1909)年6月7日起工され、明治43(1910)年3月20日落成とあり、明治末になって洋風建築が総社でも取り入れられたことがうかがえます。
建築面積115平方メートル。花崗岩製の布基礎の上にレンガ積みとした木造二階建で、下見板張の壁に、桟瓦葺きで多角形の楼閣風入口が特徴です。
総社市内に現存する唯一の明治洋風建築で、平成18(2006)年3月2日、国の登録有形文化財に登録されました。
吉備路れんげまつり創始物語

熱い気概を持つ若者たちがいたのどかな田園風景の中に荘厳な五重塔がそびえ立つこの地を、より一層素晴らしいものにし、次の世代に残したい横田博志(三須 神楽師 一九五八~二〇〇六)を中心とする有志青年グループが秋に播いたれんげの種は翌年みごとに花開き、あたり一帯を可憐な浅紅色の絨毯で敷詰めた時に昭和六十一年四月二十九日、第一回吉備路れんげまつりが開催されたのである。
本日、三十回目の開催を記念して、創始グループに感謝の意を表し、末永く市民に愛されるまつりとなることを祈り、この創始の地に称える。
湊川決戦一週間前備中福山合戦

海抜三百二米のこの福山は往古 神奈備山、加佐米山、百射山とか言われたが、山岳佛教が栄えた奈良平安期報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て伽藍が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。
後醍醐天皇念願の親政が復活したが建武中興天皇支持勢力の新田義貞、楠木正成等と対立した。この結果尊氏勢力が九州へ敗走し軍勢を立て直して再び京都を目指し東上を開始した。福山合戦はその途上の延元元年五月におこった。
足利直義十六日朝原峠より攻撃を開始したが城兵撃退す。十七日四方より総攻撃をかけ城兵は石火矢、岩石落し、弓矢にて二万餘の死傷者を出したが新手入り変り立ち変り遂に乱入されて火をかけられ落城となった。大井田氏經一千騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は百騎程になり山上は火の海、氏經はこれまでと部下を集め三石の本陣に加わらんと一方切り破り逃がれた福山落城後直義は敗走する氏經を追い板倉より辛川まで十余度交戦を続け三石城へ逃れ去った。
直義は足利勢を爰で休養させ首実験をして戦攻を賞した。討首千三百五十三を数えたという。
井山宝福寺の縁起

当山はもと天台宗の古刹で千有余年の古道場であり、創立の始祖を日輪大阿闍梨と申します。
後堀河天皇の御代貞永元年(一二三二)に鈍庵和尚が新たに現在の地に伽藍を建てたものが宝福寺であります。
当時栄西禪師が臨禪を支那から将され、数年後九条道家のねがいによって、円爾弁円(聖一国師)が東福寺に出世され、禪風は天下に普及しました。このとき鈍庵も上洛して弁円について修業し、ついに井山を禪林に改宗されました。
時の御帝四条天皇の御病気平癒の加持を命ぜられた鈍庵は、新たに壇を築き懇祷しまちたら、満願の暁に客星が壇前に落ちてきました。その壇を礼星壇と名づけて、落星の地に井戸を掘り、千尺井と呼んでおります。加持の霊験によって、天皇はたちまちお元気になられ、御満足の意により、近郷の庄園三千石を賜り、寺を勅願寺とされ、特に護国の二字を加えて宝福護国寺とされ、国家鎮護を祈るよう、御宣示を戴きました。
山内で一番古い建物といわれる三重塔(国指定重要文化財)は、寺伝によれば、弘長二年(一二六二)北条時頼公が巡国の際、当山に立ちより、建立されたと伝えられておりますが、昭和四十四年(一九六九)解体修理され、永和二年(一三七六)に建立されたものと記録されています。
今からおよそ五百四十年程前に、画聖雪舟が十二才で当山に入門し修業の際、絵ばかり書いてその業を怠り、住職がいましめのため本堂の柱にしばりつけたところ、落ちる涙で板敷にねずみの絵をかき、そのねずみが生きているように見えたので、住職はすっかり感心して、絵の修業をゆるしたということです。
たまたま天正三年(一五七五)の備中兵乱にあい、一山は丸焼けとなり、わずかに三重塔、般若院、満足庵が残っただけで、以後永らく無住となり、寺は荒廃の極みにいたりました。寛永七年(一六三〇)徳川氏から朱印百石を受領し、歴代の住職は寺の再建に百方奔走したため、旧例によって国家鎮護の官寺となり、漸次 藍を再興して今日に至っており、臨済宗東福寺派の中本山で、七堂伽藍完備の巨刹であります。
