幸山城跡

こうざんじょうし

 幸山城は、福山の西北、標高164mの小山の頂上に立地します。三方が絶壁で、守りやすく攻めにくい天然の要塞(ようさい)となっており、眼下に山陽道が一望できる良好な立地条件の下に築かれた山城です。
 鎌倉時代の後半に、庄左衛門四郎資房が築いたとされています。室町時代の中ごろには、庄氏から備中国の守護職にあった細川氏の配下の石川氏に城主が代わり、以後約150年間にわたって居城していたとみられます。16世紀の後半には、備中松山城主三村元親と毛利氏の間に備中兵乱と呼ばれる戦が起こり、幸山城はその舞台となった城の一つです。
 幸山城主石川久式は毛利軍に加わっていましたが、義理の兄弟にあたる三村元親と毛利氏が戦闘状態になると、三村氏を援護しました。しかし、松山城は落城し元親は切腹、久式も追い詰められ自害しました。
 その後、幸山城は、毛利氏と共に三村氏を攻めた小早川隆景に与えられましたが、江戸時代の初めには廃城となったようです。幸山城には、堀で仕切られた郭(くるわ)と呼ばれる2つの区画壇があり、「西の丸」、「東の丸」と呼ばれています。

幸山城跡

名称
幸山城跡
所在地
総社市西郡
指定区分
市指定 史跡
時代
鎌倉時代後半~安土桃山時代
指定年月日
昭和50(1975)年2月3日
管理者
西郡共有林代表者
大きさ・寸法
全体約5,000平方メートル