増弁入定地

ぞうべんにゅうじょうち

 増弁和尚は、寛文12(1672)年、市内諸上(むらげ)の松尾惣ヱ門の三男として生まれました。13歳の時、金龍寺で修行僧として守るべき戒めを受け、名を慈観、字を増弁と称しました。その後、28歳の春に金龍寺の住職となりますが、享保3・4(1718・1719)年と連続した飢饉(ききん)に、人々の苦しみを見ていることができず、祈祷(きとう)と20日間の断食を行ないました。
 享保17(1732)年には長雨とイナゴの害がおき、作物の収穫がほとんどできなかったことから、全国で96万余の人々が飢餓で苦しんでいました。増弁は人々を救うため、弘法大師の九百忌にあたる享保19年3月21日を亡くなる日と定め、同年2月21日から五穀を断ち、3月1日より断食を始め、同21日の朝、身を清め、石の棺に入り、結跏趺坐(けっかふざ)して、蓋を閉じさせ仏の世界に旅立ちました。

結跏趺坐: 仏教における座法の一つです。あぐらをかき、左右のももの上に反対の足を置き、足の裏を上に向けて組む座り方です。禅宗で 座禅を組む時の座り方です。

増弁入定地

名称
増弁入定地
所在地
総社市上林
指定区分
市指定 史跡
時代
江戸時代
指定年月日
昭和40(1965)年1月20日
管理者
金龍寺