古川古松軒の墓

ふるかわこしょうけんのはか

 江戸中期の地理学者:古川古松軒は、享保11(1726)年、橋本家の別家にあたる古川護次の子として新本で生まれ、名を辰、または正辰、通称平次兵衛といいました。
 古松軒は、自学自習で地理・歴史を学び、測量術に長じていました。諸国を周遊し、山陽・九州の紀行文『西遊雑記』、東北・蝦夷の紀行文『東遊雑記』をまとめ、地理・風俗・物産等や、一般民衆の生活状態を伝えました。
 また、寛政の改革を行なった老中松平定信の信任を得て、幕府の命令により『武蔵5郡の図』、『四神地名録』を作成しました。
 晩年は岡田藩に帰り、岡田藩主から苗字帯刀を許されました。文化4(1807)年に亡くなり、宅源寺脇の橋本家の墓地に葬られ、「古松軒夫婦之墓」と刻まれた自然石の大きな墓石がたてられました。

岡田藩: 倉敷市真備町の川辺(かわべ)・薗(その)・八田(やた)・二万(にま)・陶(すえ)・服部(はっとり)・妹(せ)・尾崎(おざき)と、総社市の新本(しんぽん)・水内(みのち)を含む1万石余りの小藩。


古川古松軒の墓

名称
古川古松軒の墓
所在地
総社市新本
指定区分
市指定 史跡
時代
江戸時代
指定年月日
昭和40(1965)年1月20日
管理者
宅源寺