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広報そうじゃ
 

  雪舟逍遥〈せっしゅうしょうよう〉
せっしゅうそぞろ歩き─9

益田をはじめ各地を旅する

 中国から帰国した50歳の雪舟は、応仁の乱の戦渦を避けて諸国を転々とした後、50歳代半ばには豊後府内(大分市)に「天開図画楼(てんかいとがろう)」と名付けたアトリエを築きました。そこは前に海が開け後ろに山が連なるという美しい景観の地であり、雪舟の作品を需(もと)めようとする高貴な身分の人や僧侶(そうりょ)、商工に従事する人たちが門前に列をなし、アトリエの中には画筆が散らばり、大きな絵、書きかけの絵、手の着けられていない白い紙が見えたと、同所を訪れた禅僧呆夫良心(ばいふりょうしん)が書き残しています。
 やがて旅に出た雪舟は、60歳ごろには石見国益田(島根県益田市)で、領主「益田兼堯(かねたか)像」(重文 益田市立雪舟の郷記念館蔵。下の写真)を描きます。それは伝統的な大和絵スタイルの構成をとりながらも、顔貌(がんぼう)には頂相(ちんぞう)(禅僧の肖像)制作で培った迫真的な水墨表現が発揮されるという画期的な肖像画でした。
 さらに東に進み、62歳の秋には美濃(岐阜県)を訪れ、旧知の人々と交遊し、駿河(静岡県)や相模(神奈川県)を経て、越後(新潟県)や能登(石川県)まで足を伸ばしたと考えられています。
 雪舟67歳時の山口在住が、了庵桂悟(りょうあんけいご)著『天開図画楼記』によって判明します。同書は雪舟が備中の人で、姓は藤氏であると記述した最初の史料です。この史料は、ほかに雪舟が雲谷庵(うんこくあん)と名付けた小画房を営んで自然と画事に親しむ穏やかな生活を送っていること、また守護大内政弘が時折訪れるなど、彼が山口で重んじられていたことを伝えてくれます。
 そして、この年、雲谷庵において全長約16mに及ぶ「山水長巻」(国宝 毛利博物館蔵)を制作しました。巻末には、「文明十八年嘉平日(一四八六年十二月)天童前第一座雪舟叟(そう)等楊六十有七歳筆受(ひつじゅ)」の款記があり、長い名称と歳書(としがき)を伴う自署からは、この作品に格別の自負があったことがうかがえます。なお、「筆受」の語句は、この絵の発想のもとに南宋の画家夏珪(かけい)の山水画巻があり、それを翻案して本巻が描かれたことを示唆するものです。

文/岡山県立美術館学芸課長 守 安  收(おさむ)


出山釈迦図
「益田兼堯像」
重要文化財 益田市立雪舟の郷記念館蔵

 

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