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広報そうじゃ 2006年10月号

 雪舟逍遥〈せっしゅうしょうよう〉

せっしゅうそぞろ歩き─6

宝福寺から京都相国寺へ
 先月号で、雪舟は宝福寺ではなく直接相国寺(しょうこくじ)(京都市)に入寺したと書きましたが、雪舟は禅の修行に際し、在世時の史料どおりに当初から相国寺へ赴いたのでしょうか。
 相国寺は京都五山の一つで、日本最上位の禅寺でした。しかし、彼の禅林における交友関係を尋ねてみると、相国寺との関わりが乏しい反面、人数の面でも親密度でも東福寺系の僧との接触が際立っています。つまり、現象面では相国寺ではなく、東福寺入寺説が主張される方が自然で納得できるほどなのです。
 次に、江戸期の文献から登場した宝福寺との関わりですが、備中赤浜で生まれた男児が禅僧になろうとするならば、まず地元で最も格式が高く、隆盛を極めていた宝福寺に想像が及ぶのが当然です。また、江戸期に何の検証作業も試みぬまま、虚構が語られたわけではないでしょう。おそらくそうした言い伝えがあったのです。とはいえ、この連載の4.(7月号掲載)で詳述したように、雪舟が誕生したころの赤浜には、雪舟の一族と考えられる藤(原)氏が外護(げご)する徳本庵(とくほんあん)という仏通寺派の禅庵が存在し、彼はこの徳本庵を通じて禅道に進んでいったと理解されるのです。
 すると、意外なことに、ここでも東福寺派の有力地方寺院である宝福寺の名前が浮上する余地が生まれます。五山を離れ林下(りんか)の禅に徹し、門弟に五山への出頭を禁じた仏通寺派の祖愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)ですが、東福寺栗棘派(りっきょくは)とだけはかなり密接な関係を維持し、交友を深めていました。この愚中の高弟で、徳本庵や藤氏一族との親密な関係が判明している重玄寺(ちょうげんじ)の千畝周竹(せんみょうしゅうちく)和尚も同様です。雪舟周辺においては、藤氏、徳本庵、千畝、重玄寺、仏通寺、東福寺、さらに宝福寺という大きな環が形成されていたのではないでしょうか。それ故、幼年、もしくは少年の雪舟が宝福寺に入ることに関して周囲に抵抗感はなかったように思えます。
 そこで筆者は、雪舟は宝福寺を経て東福寺に入り、その後、水墨画の修業のために自ら求め、あるいは何らかの縁にしたがい相国寺に移ったと考えています。
 
お問い合わせ:企画課

岡山県立美術館学芸課長 守 安  收(おさむ)



相国寺(京都市上京区)




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