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第10回吉備路再発見講演会

 県立博物館を誘致するにふさわしい吉備路の魅力を再発見してもらうことを目的に、10回目となる「吉備路再発見講演会」を開催しました。市内外から102名が参加しました。

講演の概要

 開催日 平成19年11月10日(土)
 開催場所 備中国分寺 客殿
 講演 元 ノートルダム清心女子大学 教授 高橋 護
 演題 「鬼ノ城をめぐる諸問題」

<講師のプロフィール>
 高橋 護(たかはし まもる) 
 1933年生まれ。明治大学文学部史学地理学科卒業。
岡山県立博物館副館長などを経て、平成16年度までノートルダム清心女子大学教授を勤める。現在、鬼城山整備委員会委員。
 主な著書に、「日本の考古学・瀬戸内地域」、「山陽カラーシリーズ・吉備の古墳」ほか
講演会の様子

講演の概略

 1971年に鬼ノ城の遺構を発見したときのエピソードを紹介。当時の山火事の影響で、連なる列石を見つけ出したことや、それをきっかけに、全容を探ったこと、672年の壬申の乱のころに城があったのではないかなど興味深いお話でした。

講演の要旨

 私は、総社市とは、随分関わりがあります。この風土記の丘の整備計画を教育委員会の人と相談しながら作り上げました。苦労して作った記憶があります。私は、昭和45年ごろから、鬼ノ城を探しに歩き始めました。日本書紀の中に記述のある吉備の大宰府の場所を探したいと思ったからであります。7世紀当時の大宰府は、今みたいに建物がたっておらず、ほったて柱しかなかったのです。九州の大宰府にはすぐ後ろに大野城という山城があります。じゃあ吉備の大宰府を探すのもまず山城を探せばいいんじゃないかと思ったのです。最初に訪れたとき、現在復元された西門から先のところが山火事で焼けていましたので、ちょうど石垣を見つけることができました。このとき、これは古代の山城であると確信しました。当時、山城はまだあまり発見されていなかったので、珍しかったです。今日は、私に講演の機会を与えていただいたので、私でなければできない話がしたいと思います。

 鬼ノ城の場所には、かつて2回城が築かれていました。全国的に山城が作られていったのは、663年に白村江の戦いで唐に敗れてからです。幅30メートル、長さ300メートルぐらいの土塁が奥坂にあります。私は、これが鬼ノ城の防御施設だと考えます。今から10年ぐらい前に、そこをトレンチ調査しました。そのときに出土したものを使って、年代を測定してみると、410年前後というデータが得られました。5世紀のはじめにこうした大きな防御施設ができていたのです。ちょうど造山古墳ができたのと同じころです。この土塁は、水をためる堤防の役割をするものとは考えられません。とすると、ここに防衛するための施設が必要であったということになります。高句麗好太王碑文には、倭(=日本)に関する記述がでてきます。倭は、朝鮮半島で高句麗と戦った時期でした。高句麗は非常に強い国で、優秀な弓を持ち、遊牧民の流れをくんでいます。391年から404年にかけて、倭の記述がでてくるが、その後は出てきません。その後は、倭の五王(讃、珍、済、興、武)の記録によることとなりますが、この時期には、高句麗との争いはありませんでした。高句麗の都 集安にあるのが、丸都山城です。これは、卑弥呼の時代にすでに作られていました。百済や新羅や邪馬台国には、そのころ山城が作られたという記録はありません。ここに住む人たちは、遊牧民の流れをくむのであり、あまり農業はしませんがその代わり馬に乗るのは非常に上手でした。軽装備の騎馬軍団であったのです。よって、山でもどこでも平気で動き回れるのです。そのころの日本には、馬はいないので、歩兵との差は歴然でした。丸都山城には、すぐ前を川が流れていて、川に面した平地の部分の谷口を土塁と石塁で塞いています。この山城は、新羅や百済の作り方とはまったく違うものです。新羅、百済は歩兵部隊であったので、騎馬軍団とは基本的に戦争の仕方が違うからです。険しい山の上に城を作らないと、平地に少々高さの土塁を盛ったぐらいではたちうちできないのです。それに比べて高句麗は、騎馬軍団なので、馬の足さえとめればいい。朝鮮半島の北半分の城は、谷口を土塁で塞ぐような作りになっています。この奥坂の土塁は、谷口を土塁で塞いで作っています。これは、騎馬軍団を防ぐために作られる施設と考えます。高句麗型の山城と似ています。たぶんその段階で、この場所に山城があったと考えられますが、規模はあまり大きくありません。5世紀に作られて、地形から見て中筋という地域に、中心となるような施設 大宰府のような施設があったのではないかと考えます。

 7世紀、この当時の国司は軍隊を持っていません。大宰府は軍事権、外交権も持っていて、非常に高い地位を与えられた組織でした。私が、吉備の大宰について関心を持ったのは、672年 壬申の乱についてです。壬申の乱が起こると、近江朝から吉備と筑紫に、兵力動員の要請がきました。吉備の国守 当摩広島はその要請に応じず殺されてしまいます。筑紫も応じませんでした。なぜ 吉備と筑紫だったのか考えてみてください。壬申の乱が起こったのは近江朝。もっと近くに国はたくさんあります。実は、その裏には、吉備と筑紫にはすでに完全武装した軍隊があったから、そういった要請がきたのではないかと考えられます。組織的な軍隊が無いところは、大量の兵器の準備も必要なので、軍隊はすぐにはできません。そのころに、吉備に軍隊があったとすれば、ちょうど鬼ノ城築城のまっさい中だったのではないかと考えられます。陣地を作るのは、軍隊。鬼ノ城のようものをつくろうとすると膨大な労働力が必要です。もちろん大工や石工のような専門家は別に調達しますが、大半の労働力となるのは軍隊でした。吉備に軍隊を集めていたことは、山城を作っていたからにほかならない。このとき、吉備か筑紫のどちらかが兵力動員に応じていたなら、近江朝がそのまま続いていたでしょう。吉備は備前・備中・備後・美作の4カ国で、いずれも肥沃で人口の多い地域でした。5畿内の全体にほぼ匹敵するぐらいです。平安時代初期の記録によると、備前の国の人口は、全国平均の2倍で、吉備全体の人口は、ものすごい数であったと思います。吉備の大宰は、中国地方から四国地方あたりまで統治していたと考えられます。中国・四国地方には屋島の山城をはじめとして、しっかりとした山城がありますが、記録に残っているものはありません。壬申の乱の影響であろうと考えます。

 鬼ノ城には、複数の倉庫群があり、中央にはいざというとき吉備の大宰が逃げ込む施設が必要です。兵隊が寝起きする場所も必要です。鬼ノ城から稜線を眺めてみると、とても100人や200人の兵隊で守れるものではありません。数千人が待機できないと守りきれない規模です。国は滅びても、城は残ると言われているように、古代山城というものは、なかなか陥落しません。非常に強固に作られた城だからです。戦国時代からの山城とは大きく違うところです。戦国時代の山城は、要所要所にやぐらがあり、そこで20名から30名で戦えるように組んであります。古代の山城は、国家的な規模で組織した軍隊でないと機能しないものです。また、倉庫群には、1年や2年数千人の兵士が篭城できるぐらいの食糧が保存できたものでした。

 現在の鬼ノ城は7世紀の終わり ちょうど壬申の乱の前後に築城されていました。その200年程前5世紀の初めにも巨大な土塁が作られていました。ちょっとした思い付きで簡単にできるものではありません。歴史を持って、鬼ノ城は7世紀の終わりに作られましたけど、それ以前にそこにはある程度拠点としての歴史があって、そのために吉備大宰がおかれていたと考えていいのではないかと思います。

問い合わせ

 〒719-1131
 岡山県総社市中央六丁目9ー108
 県立博物館を誘致する会 総社商工会議所内
 TEL 0866-92-1122 FAX0866-93-9699
 Eメール scci@kibiji.ne.jp

 

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