背景切り替え

温羅伝説モデルコース鬼ノ城 巨石巡り吉備路の観光


  備中高松城~小さな城下町「足守」~

  

  雨月物語「吉備津の釜」の舞台  吉備津神社(吉備津駅下車)



 JR吉備津駅は、温羅伝説でも紹介した吉備津神社の最寄駅。駅を出て、国道180号線を越えて、参道の松並木に沿っていくと境内に出ます。ここで鳴釜神事に題材を撮った江戸末期の文豪、上田秋成作「雨月物語」の短編「吉備津の釜」を紹介しましょう。 「雨月物語評論(有精堂出版・昭和55年版)より


 巻の三「吉備の釜」吉備の国、賀夜郡庭妹(にわせ)の郷の井沢太夫が放蕩息子の正太郎を落ち着かせようとして、吉備神社祭神の血をひく筋目正しい生まれの香央家の娘との縁組について、湯立ての神事で占おうとするところ、
 
 (以下原文)猶、幸を神に祈るとて、巫女(かんなぎ)・祝部(はふり)を召しあつめて、御湯(みゆ)を奉る。そもそも、当社に祈誓(いのり)する人は、数の祓物(はらえつもの)を供して御湯を奉り、吉祥(よきさが)凶祥(あしきさが)を占う。巫女祝詞をはり、湯の沸き上がるにおよび、吉祥には、釜の鳴声(なるこえ)牛の吼ゆるが如し、凶(あしき)に釜に音なし。これを吉備津の御釜祓(おかまはらい)といふ。さるに香央家の事は神の祈させ絡はにや、只秋の虫の叢にすだくばかりの声となる。
 
 結局、釜は鳴らなかった。それでも、昔は家と家との縁結びであったから、両家は結婚式をあげるのだが、結末は雨月物語でどうぞ。



 

  日本戦国史の転換点「中国大返し」の舞台 備中高松城址(備中高松駅下車)



 「国取り物語」「太閤記」「わたしの戦国時代」「毛利元就」などNHKや民放の大河ドラマの名場面。秀吉が黒田官兵衛の計略で、足守川の水を周辺の深田に引き込んで、城主清水宗治を自害に追い込み、信長亡き後の京都へ引き返した、あの「中国大返し」の舞台が、この高松城です。 
 現在堀跡はレンコン畠になっておりますが、四方を深田にかこまれたこの地形を見れば、水攻めの計略を「なるほど!」と首肯かれます。



 

  霊地の上に作られたマンモス大鳥居 最上稲荷(備中高松駅下車)



 最上稲荷の歴史は、天平勝宝4年(752)に報恩大師が八畳岩でご本尊の最上位経王大菩薩を感得されたことに始まります。爾来、「龍王山神宮寺」として繁栄を極めたものの、中世の戦乱時、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇焼失の憂き目にあいました。ただし、ご本尊の最上さまだけは八畳岩の下の元宮と呼ばれる場所に安置され難を免れたのです。

 新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招かれ、最上さまの霊跡を復興されたのが慶長6年(1601)のことです。寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎が築かれました。以来「不思議なご利益をお授け下さる最上さま」として多くの人々の信仰を集めます。伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷・最上稲荷は1200余年の歴史を通じて仏教の流れを汲んで発展を遂げてきた稲荷です。



 

  明治維新で足守県となった城下町 足守(足守駅下車) 




 足守。そこには遺跡、古墳が数多く存在し、古くから人の暮らしが営まれて来たことを物語っている。足守藩は慶長6年(1601)太閤秀吉の正室北政所(ねね)の兄にあたる播磨姫路城主木下家定が、領地を備中に移され、賀陽郡、上房郡内に二万五千石を領したことに始まる。陣屋町の形成に本格的に着手したのは、寛永14年(1637)に四代藩主となった木下利当。没するまでの二十数年間を本陣と陣屋町の整備に費やし、子の五代利貞の頃はほぼ完成を見ることができた。