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温羅伝説鬼ノ城 巨石巡り



   3.温羅に象徴される吉備王朝の実力。

 
 温羅3

<備中国分寺周辺・造山古墳>
 温羅に象徴される吉備王国の最盛期の力を物語るのが、備中国分寺の東にある造山古墳です。この前方後円墳の長さは360m、日本で第4位、大和以外では最大で、エジプトのギザのピラミッドの底辺(230m)をはるかに超えています。墳丘は3段築成で、くびれ部分に造出があります。造山古墳には陪塚とよばれる6基の小規模古墳があり、古墳群の中を散策できるほどの広さです。
 
 話を温羅に戻します。城のふもとに広がる阿曽郷は鋳物師の地として知られるようになり、温羅は阿曽郷の神職の娘である阿曽媛を妻として迎え入れます。吉備(キビ)とは古代朝鮮語のキンがキビになまったもので、吉備王朝は、黄金の光のような輝きに包まれます。しかし、この輝きは、すでに凋落の兆しを宿しはじめました。



  4.大和朝廷の西方将軍=吉備津彦との戦いの始まり。

 
 温羅4

<楯築遺跡・矢喰神社>
 こうした吉備の国の繁栄は、全国統一をもくろむ大和朝廷には当然面白くなく、大和朝廷は勢力拡大のため、ついに動き出しました。大和朝廷が吉備攻略に踏み切った理由には、吉備=中国地方に豊富に埋蔵される砂鉄と、それを精錬する製鉄技術にありました。全国制覇をもくろむ大和朝廷にとって、武具と農具生産に必要な鉄生産は,勢力拡大のため喉から手がでるほどのイノベーションだったのです。
 
 北陸、東海、丹波、そして西道(山陽)の4ヶ所に派遣された将軍を4道将軍と呼びますが、西道の将軍として任命されたのが、吉備津彦命でした。命は大軍を率いて吉備に下り、まず吉備の中山に陣を敷き、西の片岡山(現在の「楯築遺跡」)に石楯を築いて防戦の用意をしました。
 
 いよいよ戦いの火蓋は切って落とされました。武勇に優れた命は次々に矢を射る。一方、腕力の強い温羅もこれに負けじと岩を投じる。不思議なことに、矢と岩とは空中でぶつかり、海中に落ち、戦いはまさに五分と五分。温羅の投げた巨岩が命の矢に当たって、海中に落ちてしまいます。4つの巨岩が矢喰宮の鳥居の近くに現在も残っています。温羅が岩を投げた鬼ノ城山上と命が矢を放った楯築遺跡のちょうど中間点です。
 
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